ジャカルタまち歩き
- Takachi Nobuyuki
- 2016年9月11日
- 読了時間: 2分
今日は日曜日。いつもの様にカメラ片手に散歩に出かけた。
犠牲祭前日の今日は道ばたの至るところで羊や牛が売られていた。干し草と糞が混ざり合い、牧場の様な臭いが漂う。

売り手のおっちゃんに家畜の値段を聞いてみた。
子羊が一頭3.5百万ルピア、大人の羊は7百万ルピア、牛は25〜30百万ルピアだという(1円≒100ルピア)。
子羊一頭でジャカルタのひと月あたり最低賃金より高い。決して安い買い物とはいえないが、目の前で羊が一頭売れ、そのままバイクでドナドナされていった。



売られた家畜は、近所のモスクや町内会に寄付され、翌日、生け贄として屠られる。そして、その肉は貧しい人びとを中心に、コミュニティ内で分配される。これが年一度の大祭、イード・アル=アドハー(犠牲祭)である。
売られている家畜の多くは地方から運ばれて来ていた。
牛を売るおっちゃんに話を聞いた所、故郷マドゥーラからトラックで牛を運び、ジャカルタで売っているのだという。犠牲祭の時期は家畜の値段が高騰すると聞く。一手にこれだけの牛を仕入れ、それを一頭30百万ルピアで売りさばくとは、このおっちゃんなかなか商魂逞しいではないかと驚いた。が、そういう訳ではないらしい。
別の羊売りのおっちゃん曰く「俺たちはただのクーリーだよ。カンプン(故郷)のボスに雇われて、売り手をしているだけさ」。
なるほど、そういう事か。
おっちゃん達は地方からジャカルタに出稼ぎにやって来て普段は別の仕事をしているが、犠牲祭の時はそれぞれの「同郷ネットワーク」を通じて、いわばスポットスタッフとして雇われているのだ。
それにしても19世紀頃のインド人や中国人労働者を指して用いられたクーリー(苦力)という単語が、そのままインドネシア語で「労働者」とか「雇われ」の様な意味合いで使われているとは知らなかった。
オランダ統治時代のバタビア(ジャカルタの旧名)の港あたりでも、苦力が雇われていたりしたのだろうか。
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