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2016年 犠牲祭 (閲覧注意)

  • 執筆者の写真: Takachi Nobuyuki
    Takachi Nobuyuki
  • 2016年9月14日
  • 読了時間: 3分

2016年、9月12日。この日はイスラムの大祭、犠牲祭(イード・アル=アドハー)であった。

供物として捧げられる牛の屠殺を見学した。場所は、ジャカルタ中心部のありふれた町内会館だ。

最下部に写真ギャラリーあり。

「アッラーフアクバル」。

神は偉大なりと詠唱しながら、男は刃を牛の喉元に突き立てた。

やや反りのある山刀の様なナイフを逆手に持ち、それを梃子の要領で動かして喉を搔っ切る。

刃が皮下脂肪を切り裂き動脈に達すると、勢いよく鮮血が吹き出した。程なくして刃は喉笛に達した為、呻き声は殆ど出なかった。その代わり、呻く為に吐き出された息が喉の断面からゴボゴボと音を立てて漏れる。その瞬間、牛から魂が抜けて行く様な気がした。魂とは、血液と空気で出来ているのかもしれない。

身体中を満たしていた血液が急激に抜けたことで、腹部の皮が弛んでいった。魂という主を失った着ぐるみの様に。それでも暫くの間、牛はのたうち回る様にその巨体を揺らす。生死の境目とは一体どこにあるのだろうか。

やがて数分間続いた痙攣が止み、牛が完全に絶命した。開ききった瞳孔が、虚しく天井を見上げている。

屠殺場の床を水で流す頃には、凝固した血液が薄い膜を張っていた。

続いて男たちは解体に取り掛かる。

牛の皮を剥ぎ、肉を切り分け、肋骨に囲まれた内蔵類を取り出す。胃や腸から消化途中の干し草を取り除き、洗い流す。最後に頭部を切り離す。動物が、驚くべき手際で余す事なく食糧に変わっていった。

切り刻まれた食肉はビニールに詰められ、町内会館で住民へ平等に分配された。それを家で調理をし、家族や近しい親族を集め、宴席を設けるのである。

僕は犠牲祭を動物虐待として批判するつもりも、また反対に、食育の一環として賛同するつもりもない。

確かに牛を電気ショック等で気絶させる事もなく、ナイフで喉を搔っ切るというやり方は残酷だと思うが、それがイスラムの教えに則った「お作法」である以上、如何ともする事は出来ないだろう。また、この儀式が「命の尊厳」やら「食物の大切さ」を学ぶ食育の機会となっているという主張も甚だ疑わしい。子ども達が屠殺した牛を土足で踏みつけたり、肛門に木の枝を突っ込んだりしていたが、周囲の大人はそれを咎めようともしないのである。

一日中牛の屠殺を見ていて抱いたのは、そういった高尚なものではなく、ヒト本来の姿を見せつけられた様な強烈な思いであった。生命を維持するとは他の動植物の命を奪い、それを糧にすると言う事。そこに善も悪も無い。当たり前の事実を叩き付けられ、ただただそう思わざるを得なかった。

写真ギャラリー

※7枚目より出血を含む屠殺の様子が写されています。苦手な方は絶対に見ないで下さい

 
 
 

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